四季旅遊

蔵の街 真壁のひなまつり   
江戸末期から明治・大正など歴史的建造物が数多く現存する蔵の町・真壁で、『和の風第7章 蔵の街・真壁のひなまつり』を開催。真壁には104棟もの登録有形文化財があり、密集度では日本一の「文化財タウン」です。真壁は古い歴史があり、江戸・明治・大正・昭和の雛を見る事が出来ました。
真壁へひな祭りを見に行こうと思った時、電車を調べたりパスを調べたりしましたが真壁への交通機関がなかったので、原付(50cc)のスクーターで行く事にしました。我孫子から真壁へは我孫子〜国道六号線大利根橋を渡って〜取手市坂詰交差点から国道19号(つくばみらい市)〜国土地理院(つくば市)で408号線に入り125号線〜14号線〜筑波山を右に見て桜川市真壁に入りました。片道走行距離 55km(行き片道一時間四十五分)でした。帰りは筑波山入口に寄って帰り、この日の走行距離は126Km。原付バイクで、今までで一番長い走行距離でしたが行動範囲が広く狭い所もスイスイ混んでいても快適に走れました。











ひなまつりの起源と歴史        
 ひな祭りの歴史は古く、その起源は平安時代中期(約1000年前)にまでさかのぼります。その頃の人々は、上巳(じょうし…三月上旬の巳の日)の節句に、水辺に出て、紙や草木などで人の形をしたものを作り、これで体を撫でて病気や災いを移し、川に流す儀式がありました。これが後に「流しびな」という風習になりました。
 また、平安時代には、小さくてかわいらしいことを「ひいな」と呼び、幼女が小さな人形を用いて遊ぶことを、「ひいな遊び」といいました。その様子は「源氏物語」や「枕単子」にも描かれています。時代が下り、江戸の泰平の世が訪れると、元来、別のものであった「上巳節」と「ひいな遊び」とが結合し、現在見られるような「ひな祭り」へと発展します。
 江戸時代の初期(1629年)、京都御所で盛大なひな祭りが催され、この頃から幕府の大奥でもひな祭りを行うようになり、やがてこの習慣は上流から町人へと大きく広かっていきました。江戸時代中期には、女性たちばかりでなく、女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習も生まれて、ひな祭りはますます盛んになりました。
 明治時代に入ると、新政府は従来の節句行事を廃止して新しく祝祭日を定めたため、節句行事は一時衰えますが、人ノマの生活に根を下ろした行事は簡単になくなるものではありません。長い日本の歴史の中で、多くの女性に愛されはぐくまれてきた「ひな祭り」には日本人の心が息づいているのです。

ひな人形あれこれ
 もともと雛人形(ひいな人形)は子供たちのおままごとの道具で、初期の頃は非常に簡素で、今でいえば立ち雛のようなものでした。
 ところが江戸時代に入って、武家や富裕町人が贅を尽くして飾り始めた時に変貌を遂げ、雛人形も豪華な衣装の座り雛が登場してきました。よく聞く享保(きようほう)雛は、江戸時代の中期の享保年間(1716〜36年)に流行したことからその名がつけられました。
 現在の雛人形の主流につながる古今雛は、明和から安永年間(1764〜81年)頃に江戸で流行した雛人形です。道具がたくさん加わり、人形の顔は写実的で、装束なども凝ったものとなりました。

男雛と女雛の並べ方
 お内裏様(男雛)とお雛様(女雛)、さて、どちらを右に飾るのが正しいでしょう?答えは「どちらも正しい。」じつはお雛様の飾り方は、時代とともに変化してきたのです。日本では古来から、南を見て日の出の方角(東=左側)を上座とする習慣があり、伝統的な飾り方では、男雛が上座(向かって右)、女雛が下座に置かれていました。
 ところが、昭和天皇の即位の大礼が催された時、西洋式に天皇が向かって左、皇后が右に立たれました。また、かつて掲げられていた御真影(天皇皇后両陛下の写真)も、西洋式に昭和天皇が向かって左側だったことから、東京の雛人形業界では並ぺ方をそれまでと反対にしたといいます。
 しかし、京都は人々は従来通り飾り、伝統を重んじています。お雛さまの並べ方―つにも歴史があります。


雛人形をしまうのが遅れると婚期を逃すは本当?
 これは、いつまでもお雛様を片付けないと、だらしない女の子と思われ、嫁入り先も見つからないぞ、という意味の言い伝えです。お雛様は「幸せな結婚」に結びついているのです。