四季旅遊

愛 宕 神 社 千日詣り(ほうずき市)
東京都港区の愛宕神社の、千日詣り(ほうずき市)は毎年6月23日、24日に行なわれる、ほおづき市といえば浅草ですが、愛宕神社の方が歴史は古く江戸時代から続いている行事で、浅草のほうづき市も元々はこの愛宕からはじまったのものです。(江戸時代、ある人が神託によってほおずきが薬であることを知り、家族や隣人に飲ませたところ、子どものカンの虫が治まり、夫人の癪(しゃく:胃痛)が治ったという。) 愛宕神社は1603年(慶長8年)江戸幕府開府にあたり、江戸の防火・防災の守り神として徳川の命により建立された。正面の86段の男坂は曲垣平九郎が騎馬で上り、馬の名手として世に名を馳せたことから「出世の石段」と呼ばれ、今でも多くの人々が石段を上って参拝する。江戸の頃より桜の名所として知られ、現在も境内には数多くの桜があり、都心部にありながら、四季を感じることのできるお宮である。愛宕山は標高26M、信じられないが東京23区内ではもっとも高い山で、NHKの発祥の地で第一声はここ愛宕山からはじまった。 日本で初めての生中継は大正14年岩木利夫(参謀本部馬丁) が廃馬になる愛馬のために花道を作ろうと愛宕神社の石段を登った状況を中継したものです。    20012年6月23日撮影  出世の石段祭り>神輿が階段を登る
交通アクセス・ 地下鉄日比谷線「神谷町駅」から徒歩5分、または地下鉄銀座線「虎ノ門駅」から徒歩8分、またはJR山手線「新橋駅」から徒歩15分
      
 







出世の石段 
愛宕神社に上がる石段は「出世の石段」と呼ばれています。その由来は講談で有名な(っていっても近頃は知らない人の方が多いけれども)「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなみます。時は寛永11年、パパンパン(ってこれ、講談の張扇です)。江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。折しも春、愛宕山には源平の梅が咲き誇っておりました。家光公は、その梅を目にされ、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。しかし、この愛宕山の石段はとても急勾配です。まあ、一度いらしゃってみて下さい。歩いてのぼり降りをするのだに、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落とします。せっかく江戸の平和の世に、こんなことで命を落としてはまりません。家臣たちは、みな一様に下を向いております。家光公は、みるみる機嫌が悪くなってきます。もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。「あの者は誰だ」近習の臣に知る者はありません。「おそれがら」「おう」「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)を「出世の石段」と呼び、毎日多くの方が、この男坂の出世の石段を登って神社にお参りにみえております。なお、実際に神社にみえた方は男坂をごらんになって、「こんな石段を馬が上れるわけがない。曲垣平九郎の話は講談だからウソだろう」と思われるのですが、江戸以降にも男坂を馬で登り降りすることにトライをして、成功している方が何人かいらっしゃいます。明治15年・石川清馬(セイマ。宮城県出身)大正14年・岩木利夫(参謀本部馬丁)廃馬になる愛馬のために最後の花道をつくった)昭和57年・渡辺隆馬(タカマ。スタントマン)「史実に挑戦」というテレビの特番で。この番組では石川五右衛門は本当に大凧に乗って逃げたのか、なんていうのもやりました。神社では、男坂を馬で上下するのに成功された方の絵や写真を見ることができます。
井伊直弼を討った水戸浪士集結の場所万延元年、3月3日。時の大老、井伊直弼を水戸浪士が討った桜田門外の変は有名ですが、その水戸浪士が集結したのは、この愛宕神社だったのです。浪士たちは神社内の絵馬堂(現存せず)に集結し、神前に祈願したのち、歩いて桜田門に向かったのです。家康公が建てられた愛宕神社に祈願したわけですから、浪士たちにとって井伊大老を討つということは、幕府のためだという確固たる信念があったのでしょう。雪の降る日、愛宕山上に集結する浪士の絵を愛宕神社で見ることができます。

勝海舟、西郷隆盛の会談
世界史上の多くの革命が血と犠牲の上で行われたのに対し、勝海舟と西郷隆盛による江戸城の無血開城は、日本の近代史上、世界に誇れる快挙です。そして、実は愛宕山は、この無血開城に大きな役割を果たしていたのです。ときは江戸から幕府に移るころ。江戸城明け渡しについて勝海舟と西郷隆盛は、ともにそのバックからのプレッシャーもあって、行き詰まり状態にありました。明治元年、3月13日。両人は家康公ゆかりの当山に登り、江戸の町を見渡しました。そして、どちらから言い出すともなく、「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」と談し、ともに山を下りたのです。そして、そののち三田の薩摩屋敷で歴史的な会見をして、無血開城の調印を行いました。現在は、ビルが建ち並び江戸の町をすべて見渡すことはできませんが、しかし当山からの眺めは、人々に無駄な争いの愚かさを教え、そして平和な心を思い出させる何かがあります。